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リディア・オリリー物語

メディカルメイクアップの歴史

リディアの精神
「キャンドル・オブ・マーシイ
(慈愛の灯)」

リディアの精神「キャンドル・オブ・マーシイ(慈愛の灯)」 リディアの精神「キャンドル・オブ・マーシイ(慈愛の灯)」

ルイ王朝時代の華麗で、豪華な家具に囲まれた部屋に、
リディア・オリリーはいます。
毎朝、マリンブルーで統ーされたインテリアのサロンで、
世界中から来た手紙に目を通すのがリディアの日課でした。

美しい顔、きゃしゃな身体に、レースのロングドレスをまとうリディアの姿は、古風なフランス美人を思わせます。
この美しい女性が、かつては皮膚の変色で悩み、苦しんだ人とは誰が想像するでしょうか。
テーブルの上には、銀製の3本のろうそくをつけた燭台が置いてあります。
そのろうそくは、リディアが半生を通して貫いた精神「キャンドル・オブ・マーシイ(慈愛の灯)」を象徴しています。
1本目は愛を、2本目は勇気を、3本目は行動を、つまり「愛情を尽くし、勇気をもって行動をする」ということを意味しているのです。キャンドルスタンドのそばには、手紙の束が置かれています。
世界中の悩める人たちから届いた、救いを求める手紙です。リディアは朝のー刻、こうした手紙を読み、返事を書き始めます。誰よりもその苦しみを理解できるのは、リディア・オリリーその人なのですから。

リディアは、時に微笑みを浮かべながらベンを動かします。
「私には、誕生日が3つあります。こう言うと、あなたは不思議に思われるでしょう。でも、本当のことなのです。
1日は私が生まれた日、もう1日はカバーマークファンデーションを開発した日、そしてあと1日はカバーマークを皆さんに使っていただこうと組織化した日です。神様は、あなたと同じように、私にも試練の『印』をくださいました。この印のために、私がこれまでどれほど苦しみ悩んだかは、遠い東洋の国からお手紙をくださったあなたにも、よくおわかりのことと思います。」

リディアは、東洋の迷える子羊たちに手紙を書き綴ります。

リディアの顔のマーク

リディア誕生 リディア誕生

1901年、アメリカのニューイングランド州ボストンは、
落ち着いた学術の街として穏やかなたたずまいをみせていました。
春も終わる頃、オリリー家に4人目の子どもが生まれました。
待望の女の子で、上の3人の兄弟たちには初めての妹でした。
家族の祝福を受けた赤ん坊に、両親は「リディア」と名づけました。
「あれっ、眼のところに赤いしみがついているよ。」
よくみると、赤ん坊の左の目の下に小さな赤い斑点がありました。
医師は「心配はいりません。1~2年もしたら消えてしまう血管腫の一種でしょう。
この子はママに似て美人になるよ」と説明してくれました。

リディアは、すくすくと成長していきました。お人形のようなかわいいリディアでしたが、成長するに従ってリディアの眼の下の斑点は消えるどころか、逆に大きく、はっきりと目立ってきました。医師の言葉を信じたいけれども、母は「この斑点はあざであり、ひょっとしたら一生消えないのではないか」と不安でした。

一方、リディアは明るく、無邪気な子どもでした。友達のメアリーに顔の斑点のことを聞かれた日、「ママ、私の顔にあるのは何?」と尋ねました。
「リディア、それは神様がくださった印なの。大きくなったら消えてしまうのよ。」
その他に母は、幼いリディアに何を説明できたでしょうか。小学校入学を前に、母はリディアの顔のあざについて、ボストンの著名な皮膚科医に相談しました。医師は重い口を聞きました。
「お母さん、娘さんはポートワイン・ステインとよばれるあざです。普通は4~5 歳までに消えてしまうのですが、お子さんの場合、自然治癒は無理でしよう。大きく広がる可能性すらあります。」
治せないかとすがる母に、医師は「残念ですが、今の医学では不可能です」と言いました。
父母はとても大きなショックを受けました。

リディアは10歳の頃、感謝祭の児童劇でシンデレラの主役に選ばれました。クラスの人気者だったし、目の下の印を除けば美しい少女だったからです。
しかし「あざのある醜いシンデレラなんて、どこにもいないわ」と反対する友達もいました。リディアが「私の印はあざなんかじゃないわ、大人になったら消えるのよ」と言うと、「消えるもんですか。パパが話していたわ、パパはドクターよ」と、反対に言われたのです。
教室は騒然となり、子どもたちの言葉はリディアの心に突き刺さりました。狂ったように泣きながら帰ってきたリディアを見て、母はすべてを理解したのでした。
そして、いつの頃からか、リディアは家族も寄せつけず乱暴な振る舞いをみせるようになりました。
もう素直なかわいいリディアではありません。成長とともに絶望的な暗い日々が始まり、自分を呪い、両親を呪うようないじけた娘に変わっていったのです。

父母は、娘のあざを治すためにはあらゆる努力を惜しみませんでした。名医と聞けば遠くまで出かけ、数千ドルのお金を使いました。オリリー家にとって大きな負担ですが、治るためには何も惜しむものはありません。
しかし、すべての道が断たれた時、両親は決心したのです。この子のあざを恥じることなく、優しい立派な子に育てようと…。

やがてリディアはハイスクールを卒業し、暗い孤独な心を抱いたまま大学に進学しました。
成績はトップクラスで、化学を専攻し、将来は教師になるつもりでした。大学時代は巻き毛を長く垂らし、顔を隠していました。
ある時、ボーイフレンドができて、初めての恋をしました。リディアは生来もっている明るさを取り戻しました。
萎れていた花が新鮮な水を与えられていきいきと更生っていくように、くったくのない生来の快活さを取り戻していきました。絵ばかり描いていた孤独なリディアは、青春を謳歌する、恋する乙女に変わっていったのです。
しかし、あの神様の印だけは、消えるどころか次第に大きく広がっていたのでした。
恋人のレナードは、「リディア、人間には何か一つくらいは悩みがあるものなんだ。僕にもハンディがあるよ。でも、僕は他の人と同じで、ハンディの分だけ、少し努力すればいいんだ」と言ってくれました。

「私にはあざがある。一般の女性のように幸福な結婚は望めないだろう。レナードの言うように、より努力をしないと人生に負けてしまう」とリディアは思いました。
過去のすさんだ自分を振り切るために、大学時代のリディアは懸命に勉強しました。その知識欲と研究心が、後の彼女を救う「奇跡」を呼び寄せることになるとは、その時には夢にも思わなかったことでしょう。
しかし、ひたすら勉強し、多くの学友と接しながら、自分の未来は大きな可能性に満ちたものであるに違いないと考え始めていました。

どんなに反抗しても、父母は「自分を恥じずに強く美しく生きてほしい」と言い続けてくれました。誰もが通る、傷つきやすく多感な思春期をようやく抜け出し、リディアは印のある自分を冷静に見つめられるようになりました。

努力から生まれた奇跡

ニューヨークでの奇跡 ニューヨークでの奇跡

「ママ、私卒業したら、ニューヨークに行って働くわ。」
大学卒業を間近に控えたある日、
リディアは自分の未来をしっかりと見つめて言いました。
そして、一人ニューヨークへ旅立ったのです。

1920年代の中頃、アメリカは資本主義の絶頂期にありました。
大都会ニューヨークは活気に満ちた都市です。
壮大な摩天楼、さまざまな人種、革新的な雰囲気は、ボストンの田舎娘にとって憧れの世界そのものでした。

リディアはアパートを借り、職探しに取りかかりました。リディアが選んだのは、当時の若い女性の憧れであるデパートの販売員でした。頭脳明断、美人のリディアには理想の職場のはずでした。
しかし面接した支配人は、「ミス・オリリー、私どもはお客様相手の商売ですから…」と、何とも歯切れが悪く、結果は不採用。それでもリディアはめげませんでした。「顔にあざがあるから仕方がないわ」と何回も挑戦しましたが、どこかで理解してもらえるかもしれないという淡い期待は、ことごとく打ち砕かれました。
もう職種を選んではいられないとデパート以外のところにも応募しましたが、どの会社もリディアに会うと、何かと理由をつけて断ってきました。「とにかく働かなくては」と、リディアは職業紹介所に通い詰めました。
やっと下町の小さな雑貨屋に決まりましたが、店主はリディアを見るなり、「小さな店だと思ってばかにするな!」と怒り出したのです。罵声を背中に浴びて店を飛び出ると、ニューヨークの街は雨に濡れていました。
「私の顔が濡れているのは涙のせいじゃない。この雨のせいだわ。」
リディアは不安と絶望に押し潰されそうになりながら、一人ニューヨークに立ち尽くしました。

その後職業紹介所の尽力で、リディアはやっと仕事にありつけました。それは場末の劇場のクローク係でした。
「仕事があるだけでも幸せだと思ってください。あまり人目を気にしなくてもよいのだから」と、職業紹介所の担当者は慰め顔で言いました。半ば自暴自棄の彼女は、どこでもよいと思っていました。なるほどクロークは薄暗く、客の顔をあまり見る必要がありません。コートさえ見分けがつけば十分だったのです。
重苦しい生活が続きました。仕事のない日はひっそりとアパートに閉じこもり、時間になると薄暗いクロークへと出かけます。会話もなく、友人もいませんでした。
すっかり人間嫌いになったリディアは、趣味の油絵に没頭しました。キャンパスに絵を描いている時だけ、ほっと安らぎを感じるのでした。ニューヨークでの生活も3年目を迎えようとしていました。
都会生活にも慣れ、偏見にも慣れたけれども、必死で生き抜こうと決意している気持ちが揺らぐ時もあります。
同世代の女性が結婚したり、美しく着飾ったりしているのを見るにつけ、「このあざがなければ」と悔しく思いました。
仕事で疲れた夜、唇に薄く紅を引いてみたりすることもありました。自分と縁のない化粧でしたが、リディアの女心がルージュに滲んで見え隠れするのでした。

ある晴れた日、リディアは写生の道具を持って庭園に出かけました。
庭には緑がすがすがしく、花々が美しく咲いていました。リディアはアイリスを写生しながら、懐かしいボストンの自然を思い浮かべていました。
そのうちに、彼女は描いているアイリスの花の色をまったく違う色で塗ってしまったことに気づきました。
あわてて明るいブルーの花の色を重ねて修正すると、アイリスは美しく蘇りました。
その時、リディアの脳裏に神の啓示にも似たひらめきがよぎりました。
「色が色を隠す? あざもこのように隠せないものだろうか。私の赤いあざにもカバーできる色を上から塗ればいいのでは…?」単なる無謀な思いつきが実現するはずがないとわかっていながら、胸に湧き上がる希望を押し戻すことができませんでした。

リディアは、とりあえずパレットに肌色をつくると、鏡に向かってあざの部分に塗ってみました。
それは一時的にせよ、あざのない自分の顔でした。
「これが私なのかしら?」そこには、右の頬と同じ色の左頬がありました。
「こんなに簡単なことなのに、どうして今まで思いつかなかったんだろう。」
リディアはこのひらめきに全身が熱くなるのを感じていました。リディアの専門は化学だったので、その日から熱心に研究を始めました。化学の知識を頼りに、大学の教授に教えを請いながら、数か月が過ぎ去りました。

自分の皮膚と見分けがつかないカラー
あざをきれいに隠せるもの
化粧が長時間保たれ、崩れないもの
汗や水にも強いもの
毎日使っても、肌に害がないもの

このような条件を満たすものをあらゆる材料で試してみましたが、だめでした。失敗を何度繰り返したことでしょう。
リディアの求めるものは厳しく、だんだんと疲れと苛立ちで、あきらめの気持ちも芽生えてきました。
「やはりだめだ。あざを隠すものなど、私にできるはずがない。」
リディアは夢を縦糸に、絶望を横糸に織りなしながら、懸命にニューヨークの生活を送っていました。
けれどもリディアの心の灯火は消えることがありませんでした。
父も母もリディアに、「運命を克服する強い子になりなさい」と教えてくれました。
かつての恋人は、「ハンディの分だけ努力しよう」と励ましてくれました。そして何より、運命の「印」に苦しみ抜いたリディアの執念がありました。
「これを完成させるのは世界中に私しかいない…。」
リディアは研究に没頭し続けながら、少しずつ確信にも似た自信が燃え上がっていくのを感じていました。
そして、ニューヨークに吹雪が舞う季節に、ついにリディアは、ほぼ満足のいくペースト状の塗布剤を完成させることができたのです。まさに奇跡の誕生でした。

リディアの信念が化粧品に
初めての特許と免税を与えた

リディアの信念が化粧品に初めての特許と免税を与えた リディアの信念が化粧品に初めての特許と免税を与えた

リディアの人生は一変しました。
リディアの塗布剤は、肌につけると見事にあざを隠してくれます。
自らに課したあの複数の厳しい条件も見事にクリアしています。
リディア自身、毎日同じ肌色をした両頬になることで、
心が安らぎ、優しさに満たされていきました。
もう人の目を気にすることもありません。マーク(印)をカバーするもの、リディアはこの汗と涙の結晶を素直に表現する言葉として「カバーマーク」と名づけました。

次にすることは決まっていました。リディアは正装して、デパートの採用試験を受けたのです。
すると一目で採用が決まり、美人の配属される帽子売り場に立つことになったのでした。リディアは社会の矛盾をかみしめながら、今までの時間を取り戻すかのように仕事に専念しました。売り上げもトップクラスで、その熱心さで外商の仕入れ係の主任の地位も得ることができました。それは当時の女性としては破格のセクションでした。

そんなある日、リディアは足に怪我をしました。
治療のために病院に通った時、待合室で顔にあざのある少女を見かけました。
憂うつなその表情、人目をはばかるようにして、絶望感に打ちひしがれた姿はまるで以前の自分にそっくりでした。
リディアはすぐに後を追いかけ、少女が入っていった皮膚科の医師に面会を求めました。
若い医師は驚いた様子でしたが、リディアの熱心さとその話に心を奪われた様子で、少し怪訝な目で見つめ返しました。
一見は百聞にしかず、化粧を落としたリディアの顔を見た医師は、驚いて言葉もありませんでした。
医師の問いかけに、カバーマーク発明の経緯を説明すると、
「ミセス・オリリー、そのクリームをあざで悩む多くの人に分けてあげてくださいませんか。医師の私が言うのも変ですが、医学の進歩にはまだ時間がかかります」と真剣な表情をして言いました。
その言葉は、リディアにとって大きな啓示となりました。

もともと自分のためにだけ発明した塗布剤でした。それが人のためになるとは考えも及ばなかったのです。
しかしリディアは少女の姿に思わず体が動いてしまっていたのでした。
「自分が幸せになった今、今度は他人の幸せを考えよう。皮膚の変色で苦しむ人をなくしたい。」
リディアの決断は早く、すぐ自宅の一角に小さな相談室を開設しました。そうしてリディアの一生の仕事となるカバーマーク普及の第一歩が記されたのでした。カバーマーク相談室のことは、口コミですぐに広がりました。問い合わせが引きもきらず、世の中にこんなに悩んでいる人が多かったのかと、改めて驚くほどでした。

しかし肝心のカバーマークは、リディアの手作りの調合です。
それだけではとても追いつかない状況となるにつれ、リディアはこれを大量に製造する必要に迫られました。友人からは、「カバーマークは毎日使うものだから、普通の製品より安価でないといけない」とアドバイスを受けました。そして「カバーマークを金もうけに使うことは、君の本意ではないはずだ。カバーマークの品質を守るために特許をとるべきだよ」と勧められました。

その助言通り、リディアはまず特許の申請を行いました。
するとアメリカの法律で「化粧品には特許が与えられない」という事実を知りました。
リディアは「カパーマークは化粧品ではありません。薬です。皮膚の変色で悩む人々を苦痛から解放する薬剤です」
と主張しました。しかし、申請は却下されました。

ところがそれにもめげず、リディアは再び申請を行いました。
「あざという障害があるだけで不幸になる道理はない。人は神の前では平等であるはずだ。」
母譲りのヒューマニズムが燃え上がりました。ある時に老婆が涙を流して
「誰もがやれることではありません。クリームを発明したあなただからこそ、あざのある人の力になれるのです」
といってくれた言葉が、リディアを支え続けたのです。

1928年、ワシントン控訴院。法廷は記者や傍聴の人々で埋められていました。リディアの陳述が始まりました。
「判事の皆様は健康なので、あざのある人がどれほど苦しんでいるかはおわかりにならないのです。
この塗布剤は化粧品ではありません。あざのある人にとっては、生命と同じくらい大切なものです」
しかし、男性たちの反応は鈍いものでした。審議も終わろうとする時、リディアは自分の顔の化粧を拭き落としました。すると、居並ぶ判事たちは息をのみ、法廷は一瞬静まり返りました。

「私には、こんなあざがあるのです。これまでたくさん悩み、苦しみました。でも、このカバーマークで救われたのです。この薬がなくては生きていけないし、特許がなければこの薬はどんどん高価になるでしょう。」
リディアは声を振り絞り、訴えかけました。期せずして、傍聴席から拍手が湧き起こりました。

その後、8人の判事たちは全員一致で特許の取得に賛成し、「国家はさらに援助すべきである」と、免税の措置までつけ加えたのです。リディアは涙をこぼしながら、神に感謝の祈りを捧げたのでした。
「希望はなかったが、信念はあった。私の信念が人々に通じたのだ」リディアはそうつぶやきました。

リディア・オリリー社設立。
そして「カバーマーク」が日本へ。

リディア・オリリー社設立。そして「カバーマーク」が日本へ。 リディア・オリリー社設立。そして「カバーマーク」が日本へ。

特許取得と前後して、リディアは相談者の施術を行う場所、
会社設立の必要に迫られていました。
増える相談者の集まりに便利な場所として、
ニューヨーク五番街の一隅に決定しました。
小さなオフィスでしたが、リディア・オリリー杜の設立です。
リディアは、「この会社は、全世界の皮膚障害をもつ人のために、愛の精神とカバー技術を提供します」と誓いました。そして、3本のろうそくがついた飾台を、会社のシンボルマークに選んだのです。
「1本目のろうそくは愛を意味し、2本目のろうそくは勇気を、3本目のろうそくは行動を表しています。
愛情を尽くし、勇気をもって行動をする。」
リディア・オリリーが一生貫く「キャンドル・オブ・マーシィ」、慈愛の灯はこうして掲げられたのです。

その頃、今後リディアと運命を共にするミルドレッド・クラフトは、小さな田舎町で18歳になっていました。
彼女も幼い頃、「レッドパニー」と榔撤された、つらい経験の持ち主でした。ミルドレッドは、噂に聞いたカバーマークをまだ信じることができませんでしたが、とにかく発明者であるオリリー婦人に会いたい一心でニューヨークに出てきたのです。デパートでのデモンストレーションを食い入るように柱の陰から見つめる、田舎娘のミルドレッド。
彼女がリディアの人柄に魅了されるのに時間はかかりませんでした。

リディアとミルドレッドの2人は、カバーマークを世に広めるべく憑かれたように働き、やがてお互いになくてはならない存在になっていきました。リディア・オリリー社は毎日、多忙を極めました。人手が必要でしたが、リディアは簡単に人員を増やすことをしませんでした。
彼女はカバーマーク・アーチスト(皮膚変色を隠すためのメイクテクニックと精神的な相談を受ける技術者)には、同じ症状のある人たちだけを採用しました。彼女には、同じ悩みをもった者だけが理解し合えるという信念がありました。
「カバーマークは、神様が私につくれと命じられたものだ。悩む人に安らぎと希望を与える心の化粧品なのだ。」
リディアには壮大な夢がありました。世界中のあざのある人々、特に貧しい家庭の子どもたちすべてに、カバーマークを無料で使ってもらいたいと思っていたのです。

世界中に戦雲が広がり、世界経済が一段と厳しさを増していく時代を経て、1945年の終戦以降、混乱した世界が平静に戻っていきました。その頃には、リディアの人柄もカバーマークも高く評価されるようになり、有名な『リーダース・ダイジェスト』誌がリディアの仕事に注目し、誌面で大きく紹介したのです。リディア・オリリー社も、業界ではある程度の地位を占めるまでに成長していました。

1950年、被曝した日本人の少女たちがアメリカにやってきました。
広島の原爆投下で被曝し、そのケロイド治療のために招かれた大島鈴江さんを中心とした23人の若き乙女たちでした。
彼女たちはニューヨークの有名なマウントサイナイ病院の医師、ノーマン・カズマン博士の手術を受け、その治療の補助手段として、リディアの相談室を紹介されたのです。
その頃すでにカバーマークは病院の医師の信頼を得て、治療の補助剤として認知されていました。
全米の多くの人たちが原爆の現実に心を痛めていましたが、リディアもその一人でした。
彼女はケロイド治療痕のために化粧技術を指導し、必要な化粧品一式を贈りました。
日本でカバーマークを最初に使ったのがこの原爆乙女たちであったことに、神の意志を感じずにはいられません。
大島さんたちにとって、それは奇跡のような体験だったことでしょう。
「カバーマーク」でメディカルメイクアップした乙女たちは、別人のように美しく生まれ変わって日本の地を踏んだのです。 後日、リディアは大島さんから感謝の手紙を受け取りました。
そこには「日本ではカバーマークが大変話題になって、有名な雑誌『主婦の友』に掲載され、
多くの人からの問い合わせが殺到しました。カバーマークが日本に来ることを願っています」と書かれてありました。

エピローグ

エピローグ エピローグ

そのようにして日本で紹介されたメディカルメイクアップ技術は、
幾多の障害を乗り越え、敗戦後の日本における
混血児の問題に立ち向かった澤田美喜をはじめとする
多くの人々の尽力により、徐々に日本に広まっていきました。

そして2001年、NPO法人メディカルメイクアップ アソシエーション(MMA)が設立されました。
そのことでさらに枠を超えた広範囲の活動が可能になり、MMA今日の活動へとつながっています。
MMAに関わるスタッフは皆、オリリー夫人の思いを受け継いでいます。
「愛をもって、自ら行動し、伝えることのできる勇気を持つ。」
オリリー夫人から受け取ったキャンドル・オブ・マーシィの灯は、今でも私たちの胸の奥に灯されています。